こうやって、われわれは、何かを失う。

hogodou2009-01-30

表ブログにも書いたのだけれど、冬の雨は嫌いではない。
むしろ、街の、吐く息の、窓の結露の白い感じが、寒さとともに好きなんだと思う。ただ、残念なのは、首がヘルニアと診断されて以来、気圧の変化の関係なのかどうか分からないけれど、季節に関係なく雨が降る前には首が痛く、それが頭痛となるので、もうひとつ楽しめなくなってしまった。


「久保田(万太郎)先生の句に
     うけとりし手もこそ凍つれ下足札
寄席は、冬がいちばん懐かしい。」


安藤鶴夫創元社版『落語鑑賞』のあとがきに、こんな3行がある。
この箇所を読むと、いつも冬の雨の日の感覚が五感に甦って来る。

吉井勇の“市井の徒”。安藤鶴夫の怒り。上手く書く事が出来ないのがもどかしいけれど、落語を介してこのような“市井”像に触れて行くのが面白い。永井荷風の『日和下駄』に書かれているのも、同じような“市井”であるのかもしれない。市川準監督の『buy a suit スーツを買う』のラストシーンあたりに感じた哀感みたいなものも、多分そうなのだと思う。


第一次落語研究会にも参加した岡鬼太郎には、落語の『らくだ』に材をとった『眠駱駝物語』という芝居がある。三代目小さんは「小さん・聞書き」の中で、どれということなく「…どうも道具立てがどつさりで、落語から芝居にしたものは、妙にみんな面白くありませんな」とバッサリなのだけれど、読んでみるとちょっと興味深い。


『らくだ』は、フグにあたって死んだ、“らくだ”とあだ名される長屋の嫌われ者を訪ねてきた兄弟分の半次が、偶然通りかかった屑屋を巻き込んみ、凄みをきかせて長屋のひとたちに“らくだ”の弔いを用意させようとする。嫌がると、死体にカンカンノウ踊らせるぞ、と脅かす。みんな、死体にカンカンノウ踊られたら堪らないから渋々協力する。半次と屑屋が“らくだ”を弔いながら酒を飲み始めると、大人しかった屑屋は酒癖が実は悪くて、立場が逆転…。そんなプロットである。

岡鬼太郎の『眠駱駝物語』では、その半次の自宅の方でも揉め事が起きている。近所の男が自棄になって刃物を振り回していて母親が危ないからと言って、半次の妹が、彼に助けを求めに来る。半次は、今は、弟分の“らくだ”を弔わなければいけないから、と言って帰らない。そして、落語のようにさんざん冷たい長屋を脅して、弔いをしているところに妹がまた駆け込んで来る。半次の母親が男の出刃包丁に刺されて死んだ、と言うのである。
いい加減酔っぱらった屑屋は、それを聞いて「又カンカンノウの口が出来たな」と言う。
半次は、呆然と立ち尽くす。
屑屋は、手酌にて酒を飲む。

やり方はマズイかもしれないが、彼は弟分の死体を放り出して帰ることが出来なかったのだ。
こうやって、われわれは、何かを失う。
『鰻の幇間』一八も、そうだ。
こうやって、大切なものをオジャンにしてしまう…。