朝友

hogodou2009-03-02

難しい。
思ったようにはいかないもである。ま、当たり前って言ってしまえば、当たり前なのだけれど、それでもボヤボヤしてはいられない。


別の打ち合わせで、上野方面へ。
ついでとは言っては何だが、浄妙院にて馬楽地蔵を探す。二代目蝶花楼馬楽が祀られている。馬楽をモデルにした吉井勇の句楽もの、実録だという蝶花楼物語を読んでいたのだ。



平岡正明さんの『大落語』全2巻を読み継ぐ。
落語というフィールドを猛スピードで横断して行く、その馬力が凄い。
中でも、今では演じられる事がなくなった「朝友」という落語のことが気になった。平岡さんは「明烏」と新内の比較を行った上で、新内が落語に入ってくるにあたって、中間にあったのではないかという題材を見つけ出す。それが、「朝友」である。「朝友」には、新内「明烏」、清元「文屋康秀」、歌舞伎「六歌仙容彩」が使われているとしたうえで、「朝友」と書いて「あさとも」と読ませるのはおかしい、「文屋康秀」に登場する松月朝友(ともふさ)にちなんで「ともふさ」と読ませるべきであると、書く。

大正13年に刊行された『名人落語倶楽部』にあたると、圓喬の速記である「朝友」が載っているのだが、そこにはルビで「ともふさ」とある。じゃ、どこから「あさとも」もなったんだ、ということではあるのだが、そんなことはまぁ、どうでもいい。

ひと目惚れした男女が、ほとんど言葉を交わしていないのにお互い恋の病で死に、三途の川の手前で再会する。閻魔大王は、女の方を妾にしようと生塚婆に彼女を口説かせ、男の方は、鬼に「ぶち生かせ」と命令する。男はもう死んでいるので、「ぶち殺せ」ではなくて「ぶち生かせ」。娑婆に戻すのである。男は鬼に袖の下を握らせて、「ぶち生かせ」られるのは回避するが、娑婆にひとり戻るしかない。そこで、松の根元にくくりつけられて折檻されていた女を助け出し、塀をひらりと降りたところで、二人は娑婆に生き返る…。

平岡さんも指摘するように、葬式と婚礼が反転する設定が、鶴屋南北趣味である。

死を、地獄を笑おうとする太々しさと、その太々しさに裏打ちされた死への恐怖と、そこに金貸しの息子と待ち娘のひと目惚れの恋の病があるのが、ロマンチックで面白い。

圓喬の枕には、ちょっと突っ込んで考えるテーマがあるような気がするのだが、それはまた。