落語は死をも笑う。

hogodou2009-02-19

まとまったような、まとまらないような、と書いたけれど、全然まとまってないである。
とりあえず笑ってみるが、笑ったところで、どうにもならんのだね。


鈴木卓爾監督作品『私は猫ストーカー』は、音ロケを経て、じわりじわりと進む。なにしろ制作途中なのに、公開が決まってしまったのである。めでたい。制作過程は、表のブログに着々と書いてるので、そちらでご覧いただければ幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/slowlearner_m/


落語熱止まず。
しかし、どうも調子が悪いらしく、本を読もうとすると眠ってしまうのである。電車の中でも、布団の中でも。音ロケで久しぶりに谷中を訪れたので、調べもせず馬楽地蔵に参る事が出来ればと思ったのだけれど、そうはいかず。馬楽地蔵は、谷中とはいえ寛永寺の近くらしく、参拝かなわず。また次の機会に行く事にする。

吉井勇『蝶花楼物語』を読み進める。吉井さんも書くように、これは小説というより馬楽自身の語り下ろしの実録である。どこがこんなに興味深く感じるのか、という結論はまだ出ていないのだが、狂ってからの馬楽の、もしくは句楽の言っている事は単純かもしれないが落語家という彼の職業と考えあわせると興味深い。
ガラスのようなもので出来ている魂、という説も面白いが、貧乏人と金持ちの戦争が起きるから、自分はその先頭に立たなければならない、というのも面白い。

言ってしまえば、馬楽もまた志ん生の言うところの“ついでに生きている”ような人なのである。
彼は、人生に意味を求めず蕩尽する。
くだらないことに使い果たす。
使い果たす事によって、嘲笑っているともいえるし、それが 小心に自ら“羊”と生きている、目的論的に生きている者たちへの彼なりの“革命”であり“アナーキズム”であったと言う事ができるかもしれない。
もちろん、それはできない。
不可能なのである。
彼の繊細で蕩尽を求める精神は、その相克に絶える事が出来ない。
もちろん他の病気が精神に異常をきたしたのかもしれないのだが、そうは読まない方が面白い。

「いのちぼうにふろう」という小林正樹監督の映画があった。確か山本周五郎が原作だったように思う。内容はすっかり忘れているのだけれど、「いのちぼうにふろう」というタイトルだけが残っている。

「らくだ」も気になる。
立川志らくさんの『雨ン中のらくだ』という本が出た。
「らくだ」の部分だけ立ち読みする。立ち読みなのでうろ覚えなのだが、立川談志さんの「らくだ」の進化について書かれた部分なのだが、談志さんの「らくだ」では、屑屋の久さんが“らくだ”の思い出話をする際に、この雨を買え、と雨宿りをしている“らくだ”と呼び止められる下りがある、と言う。買えない、と言うと、“らくだ”は寂しそうに笑って行ってしまうのだ。聞いてみたいものだと思う。

正岡容の『寄席囃子』に朝寝房むらくの演じた凄惨な「らくだ」のくだりがある。
酔った屑屋と兄貴分は、“らくだ”の屍骸を運ぶ途中、質屋でまんまと小銭を借り、「はしゃぎにはしゃぎだして、焼場の板戸へ突きあたるまでめったやたらに駆け出すため、ここに当然の結果として、らくだの屍骸を振り落とす」のだし、らくだの屍骸と勘違いして拾った願人坊主を焼場で焼こうとして、「炎々たる火焔にのた打ち廻る願人坊主を、それ物の怪が憑きにけるぞとて」火夫は「棒押っ取りて打ち叩く」のだし、屑屋は「湯灌の時らくだの髪の毛を剃刀で切れないとて手で引っこ抜く」、その後茶碗酒を引っかけるところで、「ア、髪の毛がありゃァがら」と言って、「茶碗の中のその数本の長い毛を片手で押さえたままグーッとひと息に」煽るである。

落語は死をも笑う。