人を貶めない笑い。

hogodou2009-01-21

鈴木卓爾組『私は猫ストーカー』の編集は進む。
詳しくは、こちらから。http://d.hatena.ne.jp/slowlearner_m/
もっとしんみりする話になると思いきや、これが笑ってしまうのである。
しかし、監督をはじめ、キャメラマンも、俳優たちも大真面目なのだ。誰も笑わそうと誇張などしていないし、そんなそぶりさえ見せないのだ。しかし、可笑しい。これが、鈴木卓爾監督の世界なのだな、と思う。そう話すと、たむらまさきキャメラマンは、にこやかに、えっ、そうじゃなかったんですか? とおっしゃる。いえいえ、その通りでございます。
多分、笑わそうと、喜劇をわざと作ろうとしたら、少しも笑えないだろう。
だから、という訳ではないのだが、このところ落語についての本を読んでいる。
直枝政宏さんの本で、「居残り佐平次」のことを思い出し、川島雄三の『幕末太陽伝』を見たからでもあるし、年末に立川談志さんの番組を見てしまったからでもあるし、その頃たまたま小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』を読んでいたからでもあるだろう。
流行なのか分からないのだが、文庫で手軽に落語関係の本を読む事が出来るようになって、嬉しい。あとは早々に絶版にならないことを祈るのみ、である。
読んでいるのは、安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』である。
苦楽社の最初の版で読みはじめたのだけれど、東京の街中は気が荒くて、歩いているとわざわざぶつかってくる人がいる。本を壊されそうになって、創元社版で読み続けることにした。
安藤さんによる、落語の聞き書きである。
苦楽社版は、「富久」から始まる。
それぞれの落語の聞き書きに入る前に、解説というのか、エッセイというのか、安藤さんの「まくら」が面白い。
落語もいいのだけれど、その「まくら」読みたさに、ページを繰ってしまう。
「寝床」の「まくら」には、こんなことが書いてある。


「…功名極まるいひわけをしては、どんなにしてでも義太夫を聴くことから逃げやうと惨憺たる苦心をするお長屋の衆や、店の者に強い怒りを感じ、“寝床”の主人公の心情には深い同情と哀愁を感じたものである。
“寝床”の主人公は、優れた演出の場合にあっては、常に必ず、世にも稀なるよき人である。
義太夫を語るといふ唯一のその弱みを、世間が最大の弱点として、他の一切のよき行為をも抹殺しようとすることに、僕は深い憤りを覚える。
“寝床”の演出で、だから主人公が義太夫を語る以外は、悉くよき人であるといふデッサンが出来てゐないでは、この噺の真髄は発揮出来ない。誰でも一通りはやる落語でゐて、実は優れた“寝床”が甚だ少ないのは、実にこの主人公の、さうした人間描写が至難でもあり、またその大きなポイントを、以外に落語家が把握してゐないからであらう。」


これは、案外重要な、しかし難しい演出であると思われる。
人の弱みを弱みとして蔑み、貶める事で笑いとすることは出來る(簡単ではないかもしれないが)かもしれないが、安藤さんのような視点で「寝床」を読む時、「寝床」という落語が笑いとともにが馥郁とした豊かさと哀感をもって胸に迫って来る…。

どんな時でも、人を貶めてはならない。
特に笑いにあっては。
人を貶めない笑い。
そこにカリカチュアではない、哀感を持った笑いが生まれるのか…。