業の肯定

hogodou2009-01-13

なんだかんだと日々は過ぎる。
表(何がだろう?)ブログも、毎日書くと決めたので、毎日書く。
小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』を読み出したら止まらない。「序章」「終章」「附章」を含めると全37章のうち、第25章まで読み進める。自伝的な形態をとりつつ、「小説とは何か?」を追求した本。経験的小説論とでも言うべきなのだろうか。
とにかく、まだ途中なのだけれど、印象に残るのは、小説という表現のでたらめなほどの自由さ、である。
「映画に文法はない」とは、小津安二郎監督の言葉だったか。
映画も小説も、べらぼうに自由な表現なのである。
「『トム・ジョウンズ』は全十八巻(今風にいえば十八章に等しい)であるが、一巻ごとに前口上がついていて、作者が読者に、直接語りかけてくる。落語でいえば、まくら。これが非常に芸がある。十九世紀以降の、リアリズムでがんじがらめになった作家は〈作品の純粋さ〉とひきかえに、こうした自由を失ってしまった。…さて、このまくらの部分で、作家は、小説論・文章論・哲学さえも語ってしまう。つまり『トム・ジョウンズ』は、作者の思想のごった煮なのである。小説の枠をこわさんばかりに、あらゆるものが詰めこまれている。」
落語と言えば、年末の深夜、立川談志さんの番組をNHKでやっていたことを思い出した。
よく言われることであるが、談志さんは落語の本質を「人間の業の肯定」とする。
あらためて聴くと、随分と酷い事をしている話が多いのだが、それを聴衆は笑って聴いている。酷かろうが、酷くなかろうが、そうとしてしか生きられない人間の「業」を、笑っている=肯定している、ということなのだ。
立川志の輔さんが、その考えを談志さんに代わって話していたのだった。
談志さんの落語を初めて聴いたのは、小学校の高学年の頃だったか。独演会だったはずだ。談志さんは、まだ参議院議員か何かで、落語を聴いた後で、楽屋でなぜか名刺をいただいて、それを大事にとっていたことも思い出した。多分、まだ実家のどこかにあるのだろう。今となっては、その時、なにをやったのか忘れてしまったけれど、あんまり面白くて、あんまり笑ったので、聴きながら座布団から、転げ落ちたことを覚えている。
実家に、父親が買った落語の名演のレコードが何枚もあって、古今亭志ん生桂三木助三笑亭可楽がお気に入りだった。
志ん生の「黄金餅」、「らくだ」は誰のだったか忘れてしまったけど、三木助の「芝浜」「へっつい幽霊」を擦切れるほど聴いたっけ。
黄金餅」も「らくだ」も酷い話だ。
全然いい話なんかじゃない。
文字で読んで、そうそう笑えるものではない、と思う。
この「業」を肯定するのは、並大抵ではない。