裏町を行こう、横道を歩もう

hogodou2008-10-17

すすむものあり、すすまぬものあり、と日々は過ぎる。
「俺たち幸せになるかな」と問われ、「ならないでしょうね、世界恐慌ですから」と答える。
冗談のようで、冗談ではない。
バタバタと立ち上がった企画は、原作者と連絡をとりつつ脚本をすすめる。平行してキャストの相談。小さい現場を作ろう。しかし、予算を作り始めて、途中で止める。まだ低予算の作品を攻撃的なものにする想像力が自分に足りない事に気付いたのだ。
ぼやぼやしていても仕方ないのだが、ここは一考が必要となる。
今回の目標のひとつは、「東京」を撮る事でもある。
かつて「東京」について書かれたものを読み継ぐ、永井荷風の『日和下駄』、木村荘八の『東京繁盛記』、永井龍男『石版東京圖絵』、野田宇太郎隅田川 東京文学散歩』などなど。
これが面白いのではまる。
「裏町を行こう、横道を歩もう」
『日和下駄』の第二章「淫祠」は、こういう書き出しで始る。
辞書によると淫祠とは、いかがわしい神をまつったやしろ・ほこら、とある。土俗で信仰されている邪神を祀った祠のことであるという。
「淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのまま打ち捨てて置かれれば結構、ややもすると取り払われるべきものである…私は淫祠を好む」
「路傍の淫祠に祈願を籠め欠けたお地蔵様の頸に涎掛をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。無尽や富籤の僥倖のみに夢を見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない」
荷風は、そのような人たちを愛する。
その愚直さを、滑稽さを愛するのだろう。
われわれは、小賢しくなり、権力におもねるようになり過ぎたかもしれない。
先週は、久しぶりに鈴木清順師のお宅を訪ねる。
電話でお話しするより、お元気そうでなにより。
85歳とのこと。
「裏町を行こう、横道を歩もう」
そんな映画を、この次は作る。