幼年期の恥辱と恍惚

hogodou2008-08-11

今日は、衣裳打ち合わせ、そして、制作演出部の打ち合わせへと続く。
上手くいっていると思えば、すぐ足下に落とし穴がある。
まったく油断できない。
三木卓の労作『北原白秋』を読了。
「白秋は母の愛を十分に浮けないで育ったかもしれないが、いきなり異性としての女たちにさらされて生きた。幼年期のエロチシズムというものが、だれにもある。だが、かれの場合〈性の芽生え〉において受けた異性体験の強烈さ、それによって一層増幅された自身の感受性、というものを思わないでいられない。かれは「淫らな水郷に育つた私はかうして不思議にも清らかな清教徒としての少年期を了つた」(「わが生ひたち」)といっているが、それはその通りに受け入れよう。この疾病と性と死に濃厚にいろどられた柳河の地に育ちながら、すくなくともかれの肉体は清浄だった。だが、いうまでもないことだが、直接的な性的体験の有無など、この場合ほとんど問題にはならない。かれは、がたがた震えながら、たっぷりと性的な体験をしていた」
「幼年期の恥辱と恍惚」。そして、歌集『桐の花』の頃、白秋は姦通罪の告発を受け市ヶ谷の未決監に収監される「生涯の大事件」…。
『怪談 水の構図』がありうるとすれば、白秋が受けたような「外面は取りすまして、廃れた面紗のかげに淫らな秘密を匿している」廃市での幼年期の恥辱と恍惚に関わるのではないか…。
泉鏡花が読みたくなる。
それは例えば、「縷紅新草」のような作品である。
「廃市」を書いた福永武彦は、その枕元に写真集『水の構図』と詩集『思ひ出』を置いて、繰り返し読んでいたと言われている…。
ふらりと入った本屋で川崎浹『過激な隠遁 高島野十郎評伝』と石内都さんの『ひろしま』。
高島野十郎の絵を、昨年の三鷹市美術ギャラリーでの展覧会まで知らなかった。
「近づくべからず、
親しむは魔業」
とある。
石内さんの捉えた「もの」たちに見入る。