ここにおいて、「図」と「地」は反転する。

hogodou2008-06-30

ああ、これはどうなんだろう。
なんだか胃が痛い…。
とにかく資料を読み続ける。ここのところは、足立倫行さんが書いた『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』。印象に残るのは、水木さんの絵について書かれた部分である。よく言われることではあるが、「背景の細密描写」と「紙芝居時代の伝統的なデフォルメ」を用いて描かれた主人公たち…。
荒俣宏さんは、こう書く。「…水木まんがではキャラクターとか動きというよりもまず、背景が問題だった、画像が図と地とに分かれるとすれば、地を熱心に描き込む方向なのだ」。
ここにおいて、「図」と「地」は反転する。
圧倒的な「世界」=「地」=「背景」の前で、デフォルメされた登場人物たち=「図」はあまりにも無力で、そして滑稽である。卑小である、と言ってもいい。
水木まんがのユーモアは、このようなところからも醸し出されるのでないか。
そして、水木さんの漫画は、このような点において「登場人物」よりも彼らの棲む「世界」の側を描くものであるとも言えるのではないだろうか。そして、その圧倒的な「世界」とは、「人間」の棲む、「人間」によって規格化された世界ではない。
そこに「妖怪」は棲むのである。
たむらさんのカメラを思い出す。カメラを覗くたむらさんは「何か写ってますよ」と笑う。たむらさんのカメラは、登場人物を追いかけるカメラではない。「図」と「地」は反転しているのだ。
鈴木卓爾さんからお借りしたNHKの「中学生日記」を見る。卓爾さんが脚本を書いた作品である。とにかく「地底人伝説」は傑作である。しかも4話連続。そのうち卓爾さんが2話を書き、唯野未歩子さんが卓爾さんが書いた脚本を受けるようなかたちで2話を書いている。新聞部のキーボードを弾きながら、擬音で歌うボーイソプラノの少年、その彼を呪うのだと校舎の屋上でチェロを弾く少女に痺れまくる。当然のことながら、職業俳優ではない彼らは、本当にキーボードを弾き、歌い、チェロを弾く。これを見てしまうと「のだめ」(ちらっとしか見てない)も「ラストフレンズ」(話にしか聞いてない)もただの子供騙しである。
「行き先は、着いてみればわかる」の竹本孝之さんが演じる迷える教師も気持ち悪くていい。
放送は、2004年9月とある。「中学生日記」は大変なことになっていたのだな…と感心する。