恐らく僕のことなのだろう。

hogodou2008-06-13

今週は妙に疲れた…。ショックなことがあり、馬鹿馬鹿しいことがあり、待機があり、なんともいい加減な感じで動き出した企画があり…嬉しいのは嬉しいのだけれど。そう言えば、BRAINZもあったっけ…。
ユリイカの原稿を送るとY編集長から電話がある。トリッキーで難しい原稿を書きましたねぇ、と笑われる。すみません。それしか思いつきませんでした…。
山崎裕キャメラマンと何度か打ち合わせを繰り返す。これも、また秘策(だからどこがだよ)ではあるのだが。
谷川健一BOXを繰り返し、一枚一枚聞く。
携帯が壊れる。
初期の村上春樹さんの小説を読む。
1973年のピンボール』から『風の歌を聴け』へ。順番が逆なんだけれど。
この2冊を読むのは、大学生の時以来かもしれない。久しぶりに読み返す村上作品は、思いのほか“重い”。今の村上作品もそうなのかもしれないのだが(とにかく、最近の作品は未読なのだ。『海辺のカフカ』も…)、「悪意」ということををめぐる小説であることを半ば確信する。
「悪意」は、もちろんジェイの言うところの「世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ」というところの「悪意」であるのだが、そこには自らが無自覚に犯すところの「悪意」も含まれている。村上作品に登場する人物たちは、世界を取り巻いている「悪意」と自らの内なる「悪意」の挟み撃ちにあって、途方に暮れているように見えるのだ。
ここにはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が反響しているのかもしれない。
そう言えば、はじめて『風の歌を聴け』の「僕」がこれまで寝た女の子のことを回想するシークエンス、二人目の「新宿で最も激しいデモが吹き荒れた夜」に出会った16歳の女の子のくだりを読んだ時、鈍い衝撃を受けたことを思い出す。「そんなところでウロウロしてるとパクられるぜ」という僕に、女の子は「でも警察は食べさせてくれるわ」と応える。「僕」は女の子を連れて駅を出て、アパートに滞在させる。その少女が部屋を去る時、「机の上には書き置きらしいノートの切れ端」があり、そこには「たった一言「嫌な奴」と記されていた」と書かれている。
「恐らく僕のことなのだろう」
このくだりを読んで、それこそ途方に暮れたようになったものだ。
初期の村上作品に比べれば、古川日出男さんの作品も舞城王太郎さんの作品も、随分「健康」な作品に思える。もちろん、いい悪いの問題ではない。