世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。

hogodou2008-06-10

解決しない、あれやこれや。そんな毎日ではある。それでも、やらなければならないことは多い。
清順師は、お風邪を召されたようで、明日は延期となる。久しぶりだったので、少々残念。ご高齢なので、来週またお電話することにして大事をとっていただく。
ユリイカのための原稿を書く。Y編集長のオーダーに応えられたかどうか…。この原稿のために、スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』と『A.I.』の2本を見返すことになる。近年のスピルバーグの作品は、彼がどこまで意識的かどうかは分からないけれど、かなり異様なものだ。その見かけのエンターテインメント性、ヒューマンな見かけとは裏腹に、その描写はかなり凶暴で、不条理な暴力が横溢していると思う。この2本も例外ではない。見終わると、いつも途方に暮れたような気分になってしまう…。
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない。あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれているって言ったっていいかもしれないね」
これは、村上春樹さんの『1973年のピンボール』の一節である。中国人のバーのマスターであるジェイが、鼠に喋るくだりである。
仕事で猫のことを考えていたからかもしれないし、最近の無差別な暴力に関するニュースを見ていたからかもしれない。ヴェトナム戦争に関する評論や小説に触れることが多かったからかもしれないし、暴力を扱った近年の小説を眺めていたからかもしれないのだが、いろいろな読書を中断して気になった村上さんの初期の作品をまとめて読むことにした。まずは、『1973年のピンボール』からだ。この本を、何年振りで読むだろう。法事で新幹線に乗ったついでに、鈴村和成さんの『村上春樹と猫の話』も読んだのだ…。
うちの猫は一時期のパニックなどまるで忘れたかのように腹を出して、眠っている。
それはそれで幸福なことなのだが、掌が腫れ上がり、あんなに痛かったのだから、もう少し申し訳なさそうな顔をしくれても罰は当たらないとうらめしく思ったりもする。
なぎ食堂で買った長谷川健一BOXを一枚ずつ聞いていく。
やっぱりいい。