たとえば、星を見るとかして。

hogodou2008-06-05

うーん、いろいろ駄目なんじゃないかと思う。ちょっと今日は、頭が混乱気味。あれこれ考えるのだが、まったくまとまりがつかない…。
夜、久しぶりに清順師に電話をする。もちろん椅子の上に正座である。お元気そうな声では、ある。先日の葉書には、あれこれと嘆くわたしを励まして下さる。いろいろ報告しなくちゃいけないことがあったんだけど、ご無沙汰しちゃって、と師。こちらこそ、気になっていながら電話をかけそびれていて、すみません。お互い電話が苦手なのは分かっているので、来週お会いすることにする。久しぶりに師のお顔が見れる。なにしろ85歳(たぶん)なのだ…。
必要があって西島大介さんの『アトモスフィア』全2巻と池澤夏樹さんの『スティル・ライフ』を読む。そこで、ふと過日このブログにもホーソンの『ウェイクフィールド』がずっと気になっている、と書いたが、それはドッペルゲンガー、分身の問題と関わっているのではないかと、ふと思う。『アトモスフィア』は、もちろん直接的にドッペルゲンガーをテーマとして扱っているが、『スティル・ライフ』は、そうではない。しかし、公金を横領した佐々井の消え方と、ドッペルベンガーと、ウェイクフィールドの身の隠し方は、隣接する問題圏にあるような気がする。
「…この現金の山は、透明人間であるための資格証明、一種のパスポートのようなようなものだと思った」
そこには社会から離脱する憧憬と不安の混交がある。
「大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩のの距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。」
それは、この日常の中にいてはできない。というか、しがたい。“透明人間”にでもならなければ…。この小説を読む人間は、おそらくそれが分かっているのだ。
ドッペルゲンガー、ダブルの問題は、もう少しちゃんと考えてもいいんじゃないかと思った。