廃馬は撃つもんじゃないんですか?

hogodou2008-05-23

なんだか今日は疲れてしまった。
特に変わったことをしていた訳ではない。いつもの通り。なのに、もう帰りの自転車では、くたくたなのだ。こんな日もある、ということか…。こんなに儲からないのだから、せめてもう少し楽しんだってよさそうなものじゃないか、と思う。しかし、映画は…。というか、僕らは…。もうとっくに死んでいるのに、まだ死んではいないと勘違いをしているだけなのではないか。気がついていないだけなのではないか? こんなことを思うときは、多分、疲れ過ぎなんだと思う。
青山南さんの『ホテル・カリフォルニア以後』にも登場するが、ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』という小説がある。舞台は1935年。不況の最中。ハリウッドでエキストラの仕事にもありつけない若い男女が、一縷の望みを賭けてマラソン・ダンスに参加する。彼らは眠らずに踊る。何日も、である。最後まで残った者には賞金が与えられるのだ。彼らはパートナーを眠らせないために、相手を蹴り、殴り、暴力を振るう。狂騒と疲労のゲーム。観客たちは、様子のおかしくなった踊り手を見るために集まるのだ。小説のマラソン・ダンスは1ヶ月近く続いた挙げ句、ある良識的な団体の抗議で中断する。もちろん勝者は、いない。た主人公とパートナーのグロリアがダンスホールから出ると、彼女は急にハンドバックからピストルを取り出す。「わたしはこの回転木馬からおりるわ」「これでもって、神さまのかわりに、ピンチヒッターに立ってちょうだい」「わたしを撃って。それしかないのよ、わたしを不幸から連れだしてくれる道は」。主人公は、祖父が足を折った愛馬ネリーを撃った時のことを思い出す。「そうしてやるのがいちばん親切なことなのだよ」と祖父は言った。「ネリーを不幸から救ってやるたった一つの道だった」。彼は、グロリアを射殺する。「いまか?」「いまよ」。捕まった主人公は、「なぜ殺したのか」と警官に問われ、こう答えるのだ。
「廃馬は撃つもんじゃないんですか?」
青山さんの文章は、この小説を、ベトナム戦争から帰還した「廃馬」たちの姿に重ねていく。戦場では、もはや役に立たなくなった人たちである。映画『帰郷』(昔見たのだが、忘れてしまった…)は、そのような戦争から帰還した「廃馬」たちの姿を描き、その中の一人を演じているロバート・キャラダインが、空気注射を静脈に射って自殺する姿を描き出す。「しかも、閉め切ったガラス窓には、他の車椅子の廃馬たちがおしよせており、みな、手出しができぬまま、廃馬キャラダインの自殺をみている」。
青山さんは、「みな、手出しができぬまま」と書いたが、「みな、手出しはしなかった」のではないか?
いつだったか、パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を引用した。
「写真に付されたキャプションが、ひとつの記憶を呼び起こしたーーー舞踏会へ向かう三人の農夫、一九四一年。年を見るだけで、三人が舞踏会に予定どおり向かってはいないことは明らかだった。私もまた、舞踏会に予定どおり向かってはいなかった。我々はみな、目隠しをされ、この歪みきった世紀のどこかにある戦場に連れていかれて、うんざりするまで踊らされるのだ。ぶっ倒れるまで踊らされるのだ」
人は(僕も)、それでも望んで踊りに行くのだから始末が悪い。そして、誰も、もはや「廃馬」を撃つこともしなくなった。