物質と反存在

hogodou2008-01-23

午前8時、店を出ると雪。
昨日は、映画美学校『砂の影』の公開記念講座「たむらまさき・撮影論」。ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。そして、映画美学校アテネフランセ文化センターの松本さん、ありがとうございました。たむらさん、筒井さん、お疲れさまでした。
手前味噌で恐縮なのだが、『砂の影』は見ていると、様々なことを考えてしまう。おそらく偏愛の対象として、この映画があるとのだ思うのだけれど。もちろん、幸福な現場だった。「映画とは何か?」ということだけを真摯に問い続けていい10日間。なんて贅沢な事なんだろう、と思う。もちろん現場でも、そうだったのだが、完成した作品を見て、更にいろいろと考えてしまうのだ。
例えば、8mmフィルムなので、暗いシーンには、無数の粒子がざわめいているのが見える。もちろんデジタルで撮影したら、それはない。16mmや35mmでも、フィルムでは同じなのだが、8mmはフィルムが小さいのでスクリーンで見ると、その他のサイズよりも粒子の姿がはっきりと分かる。例えば、光石研さんが演じる大屋が登場するシーン。彼は、アパート入り口のドアを開けて、不審者であるARATAさんが演じる真島を威嚇しようと登場する。その瞬間、無数の粒子が流動し、ざわめいている…。
もしかすると、世界はこのような無数の粒子によって構成されているのかもしれない。あなたも、わたしも、このような無数の粒子によって構成されている。そこにある机も、コップも、リンゴも。その粒子の集まりの強度によって、それは、光石研となり、アパートのドアとなり、あなたとなり、わたしとなっているだけなのではないか…。
おおよそ妄想にちかいような考えを誘発させる映画として『砂の影』は、ある。わたしにとっては。
それから、こんなことも考える。映画は影であって、それは「反存在」であるということなのだ。その「反存在」である映画は、フィルムという「物質」に焼き付けらている。映画とは、その「反存在」である映画とフィルムという「物質」との自由な結合を含む「反抗の現象」である、と。ちなみにデジタルは「情報」なのであって「物質」ではない。
これは、瀧口修造の「詩と実在」を引用しながら、空中線書局の書籍について書かれた文章のいただきなのだが、映画もまた、そうなのだとしか思えない。
映画という「影=反存在」とフィルムという「物質」の関係についてもっと考える事が必要だと思う。映画をオブジェとしてとらえること?