死ぬということは悪い事ではない。

hogodou2008-01-13

午後4時を過ぎて、ふと思う。これで外に出なかったら、まる二日、お日様の姿を見ていないことになる。昨日も出かけたのは、夜になってから。『かぞくのひけつ』の小林聖太郎監督と行定勳監督のトークイヴェントの立ち会いあったのだ。ところが、日が落ちると寒い寒い。たちまち後悔する。
うちのデブ猫は、室内猫なのだが、深夜トイレの窓から脱走。いいけどね。ヘタレなので、外に出たがる割にはすぐに帰ってくる。だから、寒いって言ったのに…。その後は、ストーブの前を取り合いになる。
「…びんばうだからいざ死なうという気にはなれない。私は慾も得もすつかり忘れきれない人間だから、懐中になにがしかのお金を持つていれば、そのお金のあるあひだは生きているだらう。赤貧となつては、土に投げ出されたお池の鯉のやうに死ぬよりほか仕方があるまい。死ぬということは悪い事ではない。人間が多すぎるのだから。生きているということも悪い事ではない。生きていることをたのしんでいれば」
引き続き、片山廣子『燈火節』を拾い読み。このような言い方は、嫌いじゃない。
細野晴臣『パラダイスビュー』を聞く。
これは高嶺剛監督の『パラダイスビュー』のサウンドトッラク。『パラダイスビュー』、『ウンタマギルー』…この時期の高嶺監督の作品が好きだ。デザイナー奥村靫正さんの作品集『燦々彩譜』の中で、中沢新一さんが、奥村さんがアートワークをしたYMOの『テクノデリック』の頃の細野さんの音に関して、次のように書いている。
細野晴臣がその頃つくっていた「あいまい」な音は、「あいまい」でありながら、けっしてアナログではなく、どこまでも「非連続」的でありながら、それが「非連続」な単位として自立しているのではなく、なにか奇妙な透明感をもった「連続体」のなかからすうっとたちのぼり、いっときこの世に存在することの喜びを快楽したあと、またふうっともとの「連続体」のほうに消えさっていく、そういう「あいまい」さなのだ。…つまり「非連続」であることは、すでに「連続体」から離脱した粒子がすっかり独立をはたして、くっきりした輪郭を誇示するようなやり方とは根本的にちがう意味をもっている。ここでは「連続体」から音の粒子が単独者としてたちのぼってくる、その生成と離脱のプロセスそのものが、「非連続」的だと、とらえられている。そのため、こうして生まれてくる音の粒々は、どれも輪郭がはっきりしていない。音粒子の下半身が消え去っているからだ。音の幽霊みたいなものかも知れない。」
我田引水だが、『砂の影』の8mmでの撮影も、そのようなものだと思った。