『暗殺・リトビネンコ事件』と『かぞくのひけつ』の公開が始まった

hogodou2007-12-23

『暗殺・リトビネンコ事件』と『かぞくのひけつ』の、渋谷ユーロスペースでの公開が始まりました。冷たい雨が降る中いらしていただいた、たくさんの皆さん、ありがとうございました。それから、大阪での公開から長い間お待たせしました。『かぞくひけつ』を支えて下さった皆さん、ありがとうございました。『かぞくのひけつ』は満員御礼。立ち見で、素晴らしいスタートを切ることができました。
昨日は、朝から夜遅くまでずっと劇場につめる。冷たい雨が降ったり、止んだり。間を縫って、『砂の影』のチラシの色稿が届いたりするので、劇場の片隅をお借りして校正をする。低気圧が来ると、首が痛い。首だけではなくて、それが偏頭痛のようになるから始末が悪い。初日のお立ち見は、お客さんには申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、やはり嬉しい。宣伝部やスタッフ、キャストの顔も明るい。涙ぐんでいる人もいる。ほんとうによかった…。
劇場でニコラ・フィリベールの新作『かつて、ノルマンディーで』とレトロスペクティヴのチラシを見つける。ニコラ・フィリベールは大好きな監督。『音のない世界』『すべての些細な事柄』が好きだ。両方とも、かつてユーロスペースで見た。『音のない世界』の時は、来日した監督とプーラン先生にインタビューもした。雑誌に掲載するための写真を撮らせてもらっていたら、監督がニコニコと、それはライカか? と聞く。成人した時に父からもらったM6をずっと使っていると答えると、自分も父から貰ったライカを使っている。ライカとは、そういうカメラなんだ、とカメラを撫でるように触っていた。先日届いたエスクァイアに、監督のインタビューが掲載されていた。
「映画を作りながら僕が何と闘っているかというと、自分自身が持っている偏見とも言える、他者に対する恐怖を克服しているとも言えます。またカメラを手にすると、撮影するより、撮影を断念することの方がずっと難しい。その人は映される側より強者になるからです。カメラは権力を備えた道具です。権力を乱用しないよう自分を制する闘いでもありますね」
これは、分かっているようでいて、とても重要な発言だと思う。うろ覚えで恐縮だが、かつて、蓮實重彦大島渚は、カメラを向けるという行為について、(カメラを向ける対象に対して)物への尊厳がなければならない、と対談で語っていた。それから、ダニエル・シュミットの映画は、そのような物への尊厳で出来ている映画だとも言っていた。それから、鈴木清順監督は、映画は借り物競走だ、と言った。みんな同じことを言っていると思う。そして、われわれはすぐに物に対して尊大になる…。
移動中、井上究一郎『忘れられたページ』を読む。
「音楽をきくことができなかったこの人は、そのかわりに---その父のように---ダンスを熱愛し、「人がダンスをしているのを見ると、音楽が足から私のなかにはいってくる」と、私に申していました」
この人とは、マドモワゼルベルクソン。その父とは、哲学者のアンリー・ベルクソンのことである。「ダンスをしているのを見ると、音楽が足から私のなかにはいってくる」という一節に胸を打たれる…。