泥地と蓮の花〜『洲之内徹 絵のある一生』を読む

hogodou2007-11-18

夜になって、急に寒くなる。
あまりに寒くなったので、今秋はじめてストーブを導入する。
と、最近風呂桶の蓋の上で暖をとっていた猫が、ストーブの前に早速座り込む。去年のように毛を焦がさないようにね。
ふと入った本屋で買った、とんぼの本洲之内徹 絵のある一生』を読む。そう言えば、去年の今頃は古本屋でこつこつと買いそろえていた彼の本をむさぼるように読んでいたのだった。『洲之内徹小説全集』全2巻、『絵の中の散歩』、『気まぐれ美術館』、『帰りたい風景』、『セザンヌの塗り残し』、『人魚を見た人』、『さらば気まぐれ美術館』…。そして、彼の愛した画家たちの絵を、ひとつひとつカタログで集めて、見てもいたのだ。
「洲之内は文才と眼力に恵まれてはいたが、加藤太郎のように、いきなり澄明な水をすくいとって喉をうるおしてくれるような芸当ができる人ではなかった。かれが原稿用紙をうめこんだことがらの多くは、潜行活動にせよ、転向やら獄中談にせよ、あるいは軍部協力、貧乏生活、大森のアパート、近親者の死、泥酔、郷里の悪口、妻ならぬ女性たちとのまじわりや別れ…等々、すべてみなむしろ「醜」の範疇に属する。つまり、この人は蓮の花よりは、泥地の描写の方にずっとエネルギーをついやしている。いわば、その人生体験のじがい調子を付与しながら画面の明度をおとし、過去や日常のさまざまな事件の挿入によって絵具をもりあげたりひっかいたりして、バックをととのえ、わずかにのこされたカンバス地に美術の花を生けてみせる…」(丹尾安典)
読んでいるうちに、惻々と悲しくなってきた。
なぜ悲しいのかは分からない。
「いわば、プライバシーが、私と佐藤(哲三)の絵との間に成り立っている。佐藤の絵の前に立つと、例えば大勢の他人の中で肉親を見かけるような感じが、私にはあるのである。それとも、自分が抱いたことのある女を人中で見る感じと言ってもいい」(洲之内徹「続 山荘記」)
丹尾は、この洲之内の文書に続けて書く。
「ひょっとすると、洲之内は絵の前で本当に勃起するのかもしれない」
そういうことなのだ、と思う。