映画=日誌

hogodou2007-01-21

古本屋で衝動買い。
梅本洋一さんの『映画=日誌』。
昔持っていたのに、引っ越しを繰り返すうちに失ってしまったのだ。奥付を見ると1988年の発行とある。ここには1984年から1988年までに書かれた映画についての原稿が収録されている。わたしが大学に入学したのが1983年だから、この『映画=日誌』に登場する映画のほぼそれが、20代前半当時の映画体験にダブってくる。オーソン・ウェルズ黒い罠』、アラン・タネール『白い町で』、フランソワ・トリュフォー『日曜日が待ち遠しい!』、エリック・ロメール『海辺のポリーヌ』『満月の夜』、ジョン.ヒューストン『火山のもとで』、ヴィム・ヴェンダースパリ、テキサス』、ジム・ジャームッシュストレンジャー・ザン・パラダイス』、フレディ・ムーラー『山の焚火』、ダニエル・シュミット『デ・ジャ・ヴュ』…。こんな映画を見て、育ってきたな、と思う。
ちょっと前に、日仏でフィリップ・ガレル監督の16才のデビュー作『調子の狂った子供たち』を見た時に、その作品に感動すると同時に、ああ、こういう映画を、暗闇の中でぼくらは映画と呼んでいたんだ、と思った。こういう映画は、今ではあまり目にすることがなくなってしまったな、とも。
パラパラと拾い読みしながら、「永遠の現在を生きる ヌーヴェルヴァーグとは何か?」という85年1月に書かれた短い文章にドキリとする。
ヌーヴェルヴァーグとは何か。それは友情だ。ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』の男たちのあの友情だ。ヌーヴェルヴァーグとは何か。それは疾走だ。ジョン・フォードの『駅馬車』のあの疾走だ。ヌーヴェルヴァーグとは何か。それは若さだ。ニコラス・レイの『夜の人々』のあの哀しい若さだ。ヌーヴェルヴァーグとは何か。それは映画の再生だ」
「同じ映画を同じ空間で同じ時間に見てしまったが最後、映画館の出口から全員がキャメラを持ってパリの街中へ走り出してしまったのがヌーヴェルヴァーグの映画群である。しかし、全員が同じ方向に走り出したわけではない。映画館の記憶を幸福なまま外に持ち出し、それを持ったまま走り続けた者。あの幸福な記憶と格闘を演じながら、記憶と手を切ろうとして映画を撮り続ける者。映画館の内部と外部の区別がつかないまま、映画館の外にいる自己を見つめなおそうとする者。映画館の外へ走り出て、走ることの意義について沈着に考えようとする者…」
そんな彼らの映画を見て、ぼくらはまたカメラを握りしめたわけだが、その感触はまだ生々しく手に残っている…。

休日なのに、『幽閉者』のチラシのニューヴァージョンの色稿が印刷所から届く。ありがたい…。

今日のiPod NICK DRAKE 『PINK MOON』
3枚のアルバムを遺して、71年に死んだニック・ドレイクの遺作。