一生を前座で通す夜長かな

hogodou2009-02-02

一喜一憂である。頑張ろう。
表ブログは、1月は皆勤賞。
私は猫ストーカー』は、オールラッシュを迎え、いい映画になりそう。たむらまさきキャメラマンや音響設計の菊池信之さんの顔を見ていると、そう思う。いつものことながら、たむらさんの絵が好きなのだ。菊池さんは、たむらさんの絵は「優しい」と言う。
フレームを問題にしないたむらさんの絵は、そのフレームの内よりも外が問題なっていて、それが映画なのだと教えてくれる。その外にあるものをフレームの内に迎え入れる。その姿が見えなかったとしても。
映画が、フレーム中心主義に、フレームの内にオンで映っているものの中心主義に陥るのを注意深く拒むキャメラなのだと思う。
そして、上下、格差をつけるのを敏感に嫌う鈴木卓爾監督の演出とよくマッチしている、と思う。


落語を聞いていて、または読んでいて、この世界観が郷愁だというのは嘘だ、と思う。
聞いていると、未だかつて落語に描かれているような“場所”はなかったのではないか、それは確かにこの世界にある感情なのだが、このような場所はどこにもなく、そのような場所を愛しそうに、または現実への怒りをもって愛しているのではないか、と思われて来る時がある。
落語とは、現実への怒りが生む、笑いと情の“場所”ではないか…。
その“場所”は、あらかじめ失われている。


私は猫ストーカー』には多くの猫たちが、登場する。
もちろん猫たちは、現実の根津や谷中に住んでいる猫たちであるから嘘ではない。
しかし、『私は猫ストーカー』の描かれる街は、当然のことながらどこにもない。
見ていると不思議な気分になる。
アニメーション批評の土居さんが指摘してくれた通り、猫たちは人間たちの右往左往を見ているような見ていないような、人間なんて知らないよ、とでもいうように歩いている。人間たちが滑稽で不可思議な存在に見えて来る。そして、われわれは、滑稽で不可思議な存在であることから逃れる術はない。しかし、それを感じさせてくれたのは、たむらさんのキャメラと卓爾監督の演出なのだ。


増田龍雨の『龍雨俳話』をゆっくり読む。

一生を前座で通す夜長かな

よい句だと思う。

こうやって、われわれは、何かを失う。

hogodou2009-01-30

表ブログにも書いたのだけれど、冬の雨は嫌いではない。
むしろ、街の、吐く息の、窓の結露の白い感じが、寒さとともに好きなんだと思う。ただ、残念なのは、首がヘルニアと診断されて以来、気圧の変化の関係なのかどうか分からないけれど、季節に関係なく雨が降る前には首が痛く、それが頭痛となるので、もうひとつ楽しめなくなってしまった。


「久保田(万太郎)先生の句に
     うけとりし手もこそ凍つれ下足札
寄席は、冬がいちばん懐かしい。」


安藤鶴夫創元社版『落語鑑賞』のあとがきに、こんな3行がある。
この箇所を読むと、いつも冬の雨の日の感覚が五感に甦って来る。

吉井勇の“市井の徒”。安藤鶴夫の怒り。上手く書く事が出来ないのがもどかしいけれど、落語を介してこのような“市井”像に触れて行くのが面白い。永井荷風の『日和下駄』に書かれているのも、同じような“市井”であるのかもしれない。市川準監督の『buy a suit スーツを買う』のラストシーンあたりに感じた哀感みたいなものも、多分そうなのだと思う。


第一次落語研究会にも参加した岡鬼太郎には、落語の『らくだ』に材をとった『眠駱駝物語』という芝居がある。三代目小さんは「小さん・聞書き」の中で、どれということなく「…どうも道具立てがどつさりで、落語から芝居にしたものは、妙にみんな面白くありませんな」とバッサリなのだけれど、読んでみるとちょっと興味深い。


『らくだ』は、フグにあたって死んだ、“らくだ”とあだ名される長屋の嫌われ者を訪ねてきた兄弟分の半次が、偶然通りかかった屑屋を巻き込んみ、凄みをきかせて長屋のひとたちに“らくだ”の弔いを用意させようとする。嫌がると、死体にカンカンノウ踊らせるぞ、と脅かす。みんな、死体にカンカンノウ踊られたら堪らないから渋々協力する。半次と屑屋が“らくだ”を弔いながら酒を飲み始めると、大人しかった屑屋は酒癖が実は悪くて、立場が逆転…。そんなプロットである。

岡鬼太郎の『眠駱駝物語』では、その半次の自宅の方でも揉め事が起きている。近所の男が自棄になって刃物を振り回していて母親が危ないからと言って、半次の妹が、彼に助けを求めに来る。半次は、今は、弟分の“らくだ”を弔わなければいけないから、と言って帰らない。そして、落語のようにさんざん冷たい長屋を脅して、弔いをしているところに妹がまた駆け込んで来る。半次の母親が男の出刃包丁に刺されて死んだ、と言うのである。
いい加減酔っぱらった屑屋は、それを聞いて「又カンカンノウの口が出来たな」と言う。
半次は、呆然と立ち尽くす。
屑屋は、手酌にて酒を飲む。

やり方はマズイかもしれないが、彼は弟分の死体を放り出して帰ることが出来なかったのだ。
こうやって、われわれは、何かを失う。
『鰻の幇間』一八も、そうだ。
こうやって、大切なものをオジャンにしてしまう…。

市井の徒

hogodou2009-01-27

大口広司さんが逝ってしまった…。
大口さんについては表ブログに書きました。
http://d.hatena.ne.jp/slowlearner_m/
廣木隆一監督ともお電話で話す。もう何をどう話していいか分からない。

鈴木卓爾監督『私は猫ストーカー』のラッシュを見て、用事を済ませて事務所に戻る。
その後、ユーロスペース横浜聡子監督の最新作『ウルトラミラクルラブストーリー』の試写を見せていただく。
6/6からユーロスペースシネカノン有楽町2丁目、シネマート新宿で公開。

そうだ、三代目蝶花楼馬楽のことを書こうと思っていたんだった。
でも、ちょっとこれでは、まとまらない。
安藤鶴夫の『落語鑑賞』を読みながら、吉井勇の『東京・京都・大阪 よき日古き日』を読んでいた。吉井勇の戯曲や小説の中で句楽物と呼ばれる、俳諧亭句楽を主人公にした作品があるのだけれど、これが馬楽をモデルにしたものだということも、「小さん・聞書」で改めて知った。

『東京・京都・大阪 よき日古き日』の前書きに「市井」という言葉が出て来る。
「私のこの連続随筆は、ここで言っている市井の徒の誰彼に対する回想記であつて、先ず多くは樊 噲の亜流、簫何のような刀筆の吏とは、あまり関係のないことばかりである。」
そして、「市井俳諧」という章に次のようにある。
吉井勇は、増田龍雨や馬楽のことを「市井俳人」と規定した後で、


「…つまりそのいずれの句を読んで見ても、一脈その底に流れているものは、豆絞りの手拭と唐桟の半纏とを好む、
市井の寄席藝人らしい、世間に対する反抗の心持であって、そのため何となく涙ぐましいような寂しい境地に誘い込まれてゆく。」


「市井」なんて、もうなくなってしまったのだろう。われわれは、「市井の徒」であるか。答えは否である。

「浅草は秋公孫樹の散るところむかし馬楽の住みけるところ」

もう今日は何を読んでも悲しい。

落語と怒り

hogodou2009-01-26

眼鏡は壊すわ、歯痛で苦しむわ、で散々な一週間。
目は極端に悪くて、乱視がひどい。とにかく眼鏡なしでは、まったく話にならない。おまけに深夜、突然歯が痛みだし、一晩中、深夜開いている薬屋はないか、とか、挙げ句の果ては救急車呼ぼうか、とか苦しんで、最後は信仰心なんて欠片もないのに神さまに謝っていた…。やれやれ。
私は猫ストーカー』の編集は、まさに佳境。
今月いっぱい粘る事にする。
そんなこんなで、安藤鶴夫『落語鑑賞』は、やっと読了。
ひとつの本を読みながら、そこに登場する事柄が気になると、すぐに脱線するので、なかなか読み終わらない事が多い。しかし、その時間が、読書の時間の中で最も至福な時であったりする。読み終わらない本が好きだ、と言う事にしているのだけれど。
『落語鑑賞』の一篇である「鰻の幇間」に、ついホロリとしてしまう。
これって、こんなにホロリとした噺だっけ、と幼い頃レコードで聴いた記憶をたどってみたりした。
幇間の一八が、名前も思い出せない“男”に鰻をたかろうして、金もないのにその“男”にまんまと散財させられてしまう…。“男”は、六人前の鰻のお土産の代金まで一八に払わせるのだ。安藤鶴夫は、その“男”の人物紹介に、いささか怒りを含ませて、こう書く。


「落語の凡ゆる登場人物の中で、これ程いやな奴はいない。」


法外な散財をさせられた一八は、最期に襟に縫い付けてあった十圓札を女中に渡す。


「ヘッ十圓(ぢいッとみ乍ら)十圓だよ(置いて)あたしが稼えだお銭ぢやァない、あたしが家を勘当になる時に弟が後を追っ駆けてきたン、兄さん、あなたァ親に逆らって藝人になるさうですが、これからてえものは兄さんの側にあたくしはをられません。この十圓はあたくしだと思って、なんかの時の足しにして下さい、さういつてこの十圓
呉れたんだ(ほろりと)この十圓だつてあたしの懐ィ永くゐたんだ。いまこの十圓とここで別れちまふ、こんだいつ逢へるか分かりやしねぇ、みねえこの十圓の影の薄いこと…」


ここまで読んで、一八を抱きしめたくなるのは、私だけではないだろう。
われわれは、このようにしてお金を失うのだ。
この噺は、たかろうとする一八が因果応報…という噺ではないのだろう。
それでは、やはり一八を貶めてしまう。
人を馬鹿にしてしまう。
逆なのだ、ここには人を馬鹿にしてしまう事に対する怒りがあるのだろう。落語は、人を馬鹿にする事ではない。『落語鑑賞』には、そのような安藤鶴夫という人の視点と、“怒り”に貫かれているように思う。『落語鑑賞』には、落語の聞き書きの他に、「柳家小さん・聞書」が収められている。これも、ひどく面白かった。「柳家小さん・聞書」の中に、三代目蝶花楼馬楽のことがよく登場する。この落語家のことは、よく知らなかった。谷中浄名院に『馬楽地蔵』があるという。

人を貶めない笑い。

hogodou2009-01-21

鈴木卓爾組『私は猫ストーカー』の編集は進む。
詳しくは、こちらから。http://d.hatena.ne.jp/slowlearner_m/
もっとしんみりする話になると思いきや、これが笑ってしまうのである。
しかし、監督をはじめ、キャメラマンも、俳優たちも大真面目なのだ。誰も笑わそうと誇張などしていないし、そんなそぶりさえ見せないのだ。しかし、可笑しい。これが、鈴木卓爾監督の世界なのだな、と思う。そう話すと、たむらまさきキャメラマンは、にこやかに、えっ、そうじゃなかったんですか? とおっしゃる。いえいえ、その通りでございます。
多分、笑わそうと、喜劇をわざと作ろうとしたら、少しも笑えないだろう。
だから、という訳ではないのだが、このところ落語についての本を読んでいる。
直枝政宏さんの本で、「居残り佐平次」のことを思い出し、川島雄三の『幕末太陽伝』を見たからでもあるし、年末に立川談志さんの番組を見てしまったからでもあるし、その頃たまたま小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』を読んでいたからでもあるだろう。
流行なのか分からないのだが、文庫で手軽に落語関係の本を読む事が出来るようになって、嬉しい。あとは早々に絶版にならないことを祈るのみ、である。
読んでいるのは、安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』である。
苦楽社の最初の版で読みはじめたのだけれど、東京の街中は気が荒くて、歩いているとわざわざぶつかってくる人がいる。本を壊されそうになって、創元社版で読み続けることにした。
安藤さんによる、落語の聞き書きである。
苦楽社版は、「富久」から始まる。
それぞれの落語の聞き書きに入る前に、解説というのか、エッセイというのか、安藤さんの「まくら」が面白い。
落語もいいのだけれど、その「まくら」読みたさに、ページを繰ってしまう。
「寝床」の「まくら」には、こんなことが書いてある。


「…功名極まるいひわけをしては、どんなにしてでも義太夫を聴くことから逃げやうと惨憺たる苦心をするお長屋の衆や、店の者に強い怒りを感じ、“寝床”の主人公の心情には深い同情と哀愁を感じたものである。
“寝床”の主人公は、優れた演出の場合にあっては、常に必ず、世にも稀なるよき人である。
義太夫を語るといふ唯一のその弱みを、世間が最大の弱点として、他の一切のよき行為をも抹殺しようとすることに、僕は深い憤りを覚える。
“寝床”の演出で、だから主人公が義太夫を語る以外は、悉くよき人であるといふデッサンが出来てゐないでは、この噺の真髄は発揮出来ない。誰でも一通りはやる落語でゐて、実は優れた“寝床”が甚だ少ないのは、実にこの主人公の、さうした人間描写が至難でもあり、またその大きなポイントを、以外に落語家が把握してゐないからであらう。」


これは、案外重要な、しかし難しい演出であると思われる。
人の弱みを弱みとして蔑み、貶める事で笑いとすることは出來る(簡単ではないかもしれないが)かもしれないが、安藤さんのような視点で「寝床」を読む時、「寝床」という落語が笑いとともにが馥郁とした豊かさと哀感をもって胸に迫って来る…。

どんな時でも、人を貶めてはならない。
特に笑いにあっては。
人を貶めない笑い。
そこにカリカチュアではない、哀感を持った笑いが生まれるのか…。

詩とは傍受であろう。

hogodou2009-01-14

友人に励まされる。もちろん彼のやり方と言い方で。
それが、とても嬉しかった。


必要あって、阪田寛夫さんの『まどさん』を読む。
「まどさん」とは、「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの童謡の作詞家であるまど・みちおさんのことである。まどさんは、まだご健在でいらっしゃることをネットで知る。1909年生まれだから、100歳だ。
総督府道路港湾課の勤めの中で、台北ホリネス教会の中で、軍隊で、戦後の警備会社や出版社での勤めの中で、まどさんの感じる「人間に対する失望の激しさ」が印象に残る。その痛みを感じると、腕時計まで「インチキインチキ」と鳴り始める。そして、軍隊での日誌にこう書き付ける。「軍隊とて、又人間の集まりか」。まどさんは、軍隊だからどうのこうのと言っているのではない。人間の集まり…そこに絶えず引き起こされる愚かさに失望するのだろう。
「まどさんの痼疾」と、阪田さんは、その失望の激しさをそう呼んでいる。


「…ここまでに紹介してきたまどさんの童謡で、自我の痕跡をのこさぬ、ユーモアを湛たえた作品の多くが、この「怒り」と「焦り」を原液に、吐気・微熱・頭痛・潰瘍・浸潤をたえず伴って滲み出し、戦後の十数年間に集中して作品化されている。
---怒りと焦りなどと書いたが、それはまた「愛」と「いたみ」と言っても同じだろう。」


そうだ。この本の「あとがき」にあった文章を忘れないうちに書き留めておこうと思って、このブログを書きはじめたんだった。
この阪田さんの小説を読んだ詩人安西均さんが、次のような文章を書いたそうだ。
安西さんは、「信号」というものの内容が秘密であればあるほど「傍受されることを、発信者はひそかに期待しているふしがある」と書く。


詩とは傍受であろう。幽かな〈存在者〉が、この夜に絶
えず送りつづけてゐる鋭い通信を、目を凝らし耳を澄ま
して傍受することであろう。


映画もまたそのようなものでありたいと思う。

業の肯定

hogodou2009-01-13

なんだかんだと日々は過ぎる。
表(何がだろう?)ブログも、毎日書くと決めたので、毎日書く。
小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』を読み出したら止まらない。「序章」「終章」「附章」を含めると全37章のうち、第25章まで読み進める。自伝的な形態をとりつつ、「小説とは何か?」を追求した本。経験的小説論とでも言うべきなのだろうか。
とにかく、まだ途中なのだけれど、印象に残るのは、小説という表現のでたらめなほどの自由さ、である。
「映画に文法はない」とは、小津安二郎監督の言葉だったか。
映画も小説も、べらぼうに自由な表現なのである。
「『トム・ジョウンズ』は全十八巻(今風にいえば十八章に等しい)であるが、一巻ごとに前口上がついていて、作者が読者に、直接語りかけてくる。落語でいえば、まくら。これが非常に芸がある。十九世紀以降の、リアリズムでがんじがらめになった作家は〈作品の純粋さ〉とひきかえに、こうした自由を失ってしまった。…さて、このまくらの部分で、作家は、小説論・文章論・哲学さえも語ってしまう。つまり『トム・ジョウンズ』は、作者の思想のごった煮なのである。小説の枠をこわさんばかりに、あらゆるものが詰めこまれている。」
落語と言えば、年末の深夜、立川談志さんの番組をNHKでやっていたことを思い出した。
よく言われることであるが、談志さんは落語の本質を「人間の業の肯定」とする。
あらためて聴くと、随分と酷い事をしている話が多いのだが、それを聴衆は笑って聴いている。酷かろうが、酷くなかろうが、そうとしてしか生きられない人間の「業」を、笑っている=肯定している、ということなのだ。
立川志の輔さんが、その考えを談志さんに代わって話していたのだった。
談志さんの落語を初めて聴いたのは、小学校の高学年の頃だったか。独演会だったはずだ。談志さんは、まだ参議院議員か何かで、落語を聴いた後で、楽屋でなぜか名刺をいただいて、それを大事にとっていたことも思い出した。多分、まだ実家のどこかにあるのだろう。今となっては、その時、なにをやったのか忘れてしまったけれど、あんまり面白くて、あんまり笑ったので、聴きながら座布団から、転げ落ちたことを覚えている。
実家に、父親が買った落語の名演のレコードが何枚もあって、古今亭志ん生桂三木助三笑亭可楽がお気に入りだった。
志ん生の「黄金餅」、「らくだ」は誰のだったか忘れてしまったけど、三木助の「芝浜」「へっつい幽霊」を擦切れるほど聴いたっけ。
黄金餅」も「らくだ」も酷い話だ。
全然いい話なんかじゃない。
文字で読んで、そうそう笑えるものではない、と思う。
この「業」を肯定するのは、並大抵ではない。